75 第39図 012号墓出土遺物 1
第6節 018 号墓
(1)遺構(第 44 図〜第 45 図、図版 20)
018 号墓は調査区丘陵の西斜面に位置し、墓口の方位は西南西である。丘陵斜面地に横穴を掘削し、 墓室を構築した亀甲墓である。当墓は本調査以前に廃棄されており、墓口は開口し、蔵骨器の多くは墓 庭へ廃棄されていた。
チジ(屋根)は平面形が後方で湾曲する馬蹄形を呈し、頂上から右側部分は欠損するがヤジョーマー イは高さ約 0.5mの板状の切石を一列に廻らしたと見られる。ウーシ(臼)につながる屋根周縁は2条 の石列で面を持つ方が上面を向き、石列の間は造成土で重鎮する。両列の表面に漆喰の塗布を施し、幅 広の石列で周縁が廻るよう意匠される。チジ中央は緩やかな弧状を呈し、石敷きは見られなかった。仕 上げは盛り土で行ったと見られる。マユ(眉石)は2つの切石で構成されている。眉頂部は平坦に仕上げ、 眉端部に向かって下方に屈曲し、先端部付近で上方に反る。両端部は肥大しない。眉正面の庇部には小 さな段が施されている。スディイシ(袖石)の上にウーシ(臼)及びクヮウーシ(子臼)が配置される。 調査開始時はウーシが残存していたが、調査中に落石の危険が生じたため除去した。墓正面は岩盤の削 り出しで、全面に漆喰塗布される。墓口の高さ約 1m、幅約 0.65m、奥行き(羨道の長さ)約 1mである。 サンミデー(供物台)は2つの板状の切石を並べ、墓庭との段差を設ける。向かって左隅に幅約 21 ㎝、 奥行き 18 ㎝のカビアンジ(紙銭焼き場)が造られる。スディイシ(袖石)は墓正面左右に岩盤削り出 しの1段で構築されるが、左袖石は板状切石を正面や側面に配して右袖石との面を揃えている。右袖石 では漆喰が全面に塗布される。ハカヌナー(墓庭)は岩盤を掘り込んで平坦化を行っている状況が、左ナー ジミー(庭積み)の斜交層理と庭の岩盤床面で見られた斜交層理のラインが同一なことからも窺える。 岩盤の窪み部分に2〜5㎝大の石灰岩を砕いた小礫と石紛が混じった 10YR6/8 明黄褐色砂の造成土を 重鎮し、その上層に1㎝大の礫や枝サンゴが少量混じる黒褐色砂質土で表面を敷き均す様子が見られた。 ワラビヌティ(童の手)は岩盤削り出しの後、小さな切石による雑な相方積みでナージミーの3分の1 程度まで造られるが、先端部は相方積みのままである。左側のナージミーは岩盤を削り出して構築され ているのに対し、右側は大きめの切石による相方積みで構築される。左側のナージミーの高さは約 1.1 mを測る。ジョー(門)は相方積みで高さ約 1m、幅 1.5m、奥行き約 1mを測る。ハカヌナー(墓庭) は幅約 6.6m、奥行き約 6.8m、平面観は方形となる。
墓室は幅約 2.7m、奥行き約 2.7m、シルヒラシから天井までの高さ約 1.8mを測る。タナ(棚)は奥 側に2段、左右に1段で、2段目は平面観がコの字状となる。奥棚と左右棚の高さは均一であることか ら6類a型に相当する。棚は岩盤からの削り出しで造られるが、奥棚や右棚の縁石の一部に切石が列状 に配されている。シルヒラシは横約 1.6m、奥行き約 1.3mを測り、石灰岩の砕いた小礫と石粉の混じっ た 10YR7/6 明黄褐色砂を敷き均している状況が窺えた。
本墓の造墓年代は明らかでないが、墓の使用時期は最も古い銘書が荒焼御殿形で見られた 19 世紀半 ばで、最も新しい銘書が明治 45 年(1912)であることなどから、19 世紀半ばから 20 世紀初頭まで使 用された墓であると考えられる。
(2)遺物(第 46 図〜第 47 図、図版 60)
018 号墓から本土産磁器、沖縄産施釉陶器、煙管(雁首)が出土した。銘書より古波蔵姓が確認できた。
第 46 図 170、171 は荒焼御殿形の蓋と身のセットである。墓室からの出土だが棚やシルヒラシで割 れた状態で検出され接合により完形資料となった。蓋は入母屋型で大棟に一対の鯱が乗る。降棟の先端 に装飾は見られない。身は位牌形の屋門を貼り付け、その両側と側面に蓮華に乗った法師像を貼り付け る。その下部には左右向かい合う馬の像が見られる。蓋および身で銘書が見られた。身の銘書面に「道 光弐拾一年壬寅正月六日/死去/兄/古波蔵筑登之/同弐拾三年甲辰六月十二日洗骨」とあり、蓋内面 にも同様の銘書が墨書される。これより被葬者は「古波蔵筑登之」で道光 21 年(または道光 22 年)に 死去し、道光 23 年(または道光 24 年)に洗骨されたことが分かる。
第 47 図 172、173 は上焼御殿形である。蓋は左棚から、身は墓庭と墓門前から出土した。接合によ り完形資料となる。上江洲編年の 1810 〜 1940 年の資料となる。
第 47 図 173 はマンガン釉甕形の蓋である。墓室から出土。蓋内面に「明治四拾五年旧五月/■■/
五日洗骨/古波藏丑妻」との銘書があり、被葬者は「古波藏丑妻」で明治 45 年(1912 年)に洗骨され たことがわかる。図化した副葬品は墓室や墓庭から出土した。第 25 表、第 47 図 175、176 のとおり。
貼
82
第18表 012号墓蔵骨器(蓋)観察表
※法量の単位は㎝、()内は残存値
№ 蔵骨 器番 号
図版番号 出土 地点
種類
つまみ/屋根形 状 接合部孔 つまみ台・圏線
鍔(㎝)
かえり(㎝)
つまみ台径 口径/棟長 内径/桁行長 器髙/梁行長 体部高/器高
文様 調整痕
釉 薬
銘書 死去年
(西暦)
洗骨年
(西暦)
備考
第39図149 図版57-149
墓室
・ シル ヒラ シ
ボージャー形 扁平形
無孔 あり・1条
-
-
なし
つまみ台は回転削り出し。鍔端部 の中央が浅く窪む。ロクロ成形 後、内外面ともに回転ナデ調整。
なし なし - -
第39図151 図版57-151
墓室
・ シル ヒラ シ
ボージャー形 扁平形
無孔 なし・なし
-
-
- なし
つまみ台なし。端部は平坦。ロク ロ成形後、内外面共に回転ナデ 調整。
なし あり - -
第39図154 図版57-154
墓室
・ シル ヒラ シ
ボージャー形 なし 無孔 なし・なし
-
-
なし
つまみとつまみ台のない笠形。端 部は平坦。ロクロ成形後、外面上 部はヘラ削り。蓋上部の調整が粗 い。
なし あり - -
第40図157 図版58-157
墓室 ボージャー形 扁平形
無孔 あり・なし
-
-
なし
つまみ台回転削り出し。鍔端部は 中央が浅く窪む。ロクロ成形後、
内外面ともに回転ナデ調整。
なし なし - -
つまみ台直 下に短い縦 位沈線が3 条。窯印か。
第40図158 図版58-158
墓室
・ シル ヒラ シ
マンガン釉甕形 宝珠形
有孔
1段・なし なし
体部が張り、鍔端部およびかえり の端部は丸みをおびる。ロクロ成 形後、内外面共に回転ナデ調整。
全体的に丁寧に調整される。
マンガン釉を表面全体 に施釉。鍔の内側は 露胎。
あり 乾隆21
(1756)
-
第40図159 図版58-159
墓室 マンガン釉甕形 宝珠形
有孔
1段・なし なし
つまみ台は回転削り出し。鍔は平 坦で端部の中央が浅く窪む。ロク ロ成形後、内外面共に回転ナデ 調整。全体的に丁寧に調整され る。
マンガン釉を表面全体 に刷毛で施釉。鍔の 内側は露胎。
あり 乾隆49
(1784)
乾隆50
(1785)
銘書に戒名 を確認でき る。
第40図160 図版58-160
墓室
赤焼御殿形 寄棟造り
-
寄棟形。大棟の両端に一対 の鯱。降棟の先は獅子頭。
正面背面ともに花文を描く。
両側面は蓮華文を描く。軒 部分に墨で縦線を等間隔で 描く。垂木か。
型成形後、外面は横方向の丁寧 なナデ調整。内面は横方向のナ デ調整が見られるがやや粗い。
白化粧を施す。
なし なし - -
第19表 012号墓蔵骨器(身)観察表
※法量の単位は㎝、()内は残存値
№ 蔵骨 器番 号
図版番号 出土 地点
種類 大きさ
(㎝)
※ 窓枠/屋
門
窓数/形 横帯 文様 調整痕 底面孔
釉 薬
窯 印
銘書 死去年 洗骨年 備考
第39図150 図版57-150
墓室
・ シル ヒラ シ
ボー ジャー
形
平葺形 3個 1方2円
①凹2
②凹1
③凹1
④-
なし
口縁部は玉縁状で内傾。ロ クロ成形後、口縁部から胴 下部までナデ調整。内面ナ デ調整。
9個/円 なし ありなし
窓庇上方 の波状文 は窯印 か。
第39図152 図版57-152
墓室
・ シル ヒラ シ
ボー ジャー
形
平葺形 3個 1方2円
①凹2
②凹1
③凹1
④-
なし
口唇部厚みがあり内傾す る。ロクロ成形後、口縁部 から肩部は弱い回転ナデ 調整。肩部から胴下部は静 止ナデ。胴最下部は回転 ヘラ削り。
5個/円 なし あり なし
窓庇右上 方に窯印 あり。
第39図153 図版57-153
ボー ジャー
形
平葺形 3個 1方2円
①凹2
②凹1
③凹1
④-
なし
口縁部は玉縁状で内傾。ロ クロ成形後、口縁部から胴 下部までナデ調整。胴最下 部はヘラ削り。焼成不良に より器形が歪む。口唇部に 削り痕あり。
5個/円 なし あり なし
窓庇左上 に窯印あ り。
第39図155 図版57-155
墓室
・ シル ヒラ シ
無釉甕 形
唐破風 形
3個 1円2円
①凹2
②凸1
③凹1
④凹1
窓は唐破風形で屋根の頂部に玉 飾りの貼り付けの痕がみられる。
直口口縁で、口唇部は平 坦。ロクロ成形後、口縁部 から底部を回転ナデ調整。
7個/円 なし あり あり
窓枠左側 および背 面肩部に 窯印あ り。
第40図156 図版58-156
墓室
・ 墓庭
マンガン 釉甕形
アーチ 形
3個 1方2方
①凹2
②凸2
③凸3
④凸3
肩部文様帯は櫛描きの波状文が2 条。胴部は貼り付けの蓮華文。茎 部分は線彫り。蓮華の上に貼り付 けの法師像。胴下部文様帯は櫛 描きの波状文が2条。
口縁部は外反。口唇部は 平坦に成形する。ロクロ成 形後、口縁部から胴下部を ナデ調整。胴最下部をヘラ 削り。内面、回転調整。
6個/円 マンガン釉 を表面全に 施釉する が、胴下部 および銘書 面を露胎。
なし あり
※大きさ(㎝)は、ボージャー形・甕形は上から口径/胴径/底径/器高。家形・御殿形は上部(長軸×短軸)/底部(長軸×短軸)/器高。
道光21?
(1841)
第20表 012号墓 陶磁器他観察表
第40図 161 図版58-161
墓庭 瓶 沖縄産施釉陶器
口径:2.4 器高:14.1 底径:5.3
畳付と内面以外は光沢のある瑠璃釉を施す。焼成時に隣の製品 と溶着した痕跡あり。素地は浅黄橙色。
第40図 162 図版58-162
墓庭 瓶 沖縄産施釉陶器
口径:1.9 器高:11.2 底径:6.7
白化粧に透明釉。外面は畳付以外全面に、内面は口縁内に施釉 される。畳付にはアルミナ、高台の内外には白色細砂が付着す る。外面にコバルトと飴釉の線条文を施す。素地は浅黄橙色。
第40図 163 図版58-163
墓庭 円盤状製品 沖縄産無釉陶器 縦:3.4 横:2.9 厚さ:0.9
重量12g。沖縄産無釉陶器を円形に打割した製品。素地はにぶい 赤褐色。
観察事項 備考
№
挿図番号 図版番号
出土地 器種 分類 法量(cm)
第21表 016号墓蔵骨器(蓋)観察表
№ 蔵骨 器番 号
図版番号 出土 地点
種類
つまみ/屋根形 状 接合部孔 つまみ台・圏線
鍔(㎝)
かえり(㎝)
つまみ台径 口径/棟長 内径/桁行長 器髙/梁行長 体部高/器高
文様 調整痕
釉 薬
銘書 死去年
(西暦)
洗骨年
(西暦)
備考
第43図167 図版59-167
墓庭 マンガン釉甕形 宝珠形
有孔 1段・2条
体部中央に2条の沈線が廻 る。棟状の突帯貼り付けが つまみ台から中央の沈線ま で3本伸び、その下端部に 玉飾りのような円形の粘土 板を一つ張り付ける。
つまみ台は回転削り出し。鍔は平 坦で端部も平坦。かえりの端部も 平坦。2.6㎝と高い。ロクロ成形 後、内外面ともに回転ナデ調整。
マンガン釉を全面的に 刷毛で施釉。
なし - -
第43図168 図版59-168
墓庭 マンガン釉甕形 宝珠形
有孔
2段・1条 なし
つまみ台は回転削り出し。鍔は平 坦で端部も平坦。かえりは0.3㎝と かなり低い。ロクロ成形後、外面 回転ヘラ削り。下部から鍔は回転 ナデ調整。内面に指頭痕あり。ま た、つまみ台から下方に小孔が33 箇所ある。
マンガン釉を全面的に 刷毛で施釉。
なし - -
第22表 016号墓蔵骨器(身)観察表
※法量の単位は㎝、()内は残存値
№ 蔵骨 器番 号
図版番号 出土 地点
種類 大きさ
(㎝)
※ 窓枠/屋
門
窓数/形 横帯 文様 調整痕 底面孔
釉 薬
窯 印
銘書 死去年 洗骨年 備考
第43図164 図版59-164
墓庭 マンガン
釉甕形
瓦屋形 3個/3方
①なし
②凸1
③凸3
④凸3
肩部文様帯なし。胴部を横帯3か ら横帯4の間を縦帯で5つに区画。
屋門下部は蓮華文の貼り付け。そ の他の区画は貼り付けの法師像 と蓮華文と茎。胴下部は無文。
直口口縁で口唇部は内側 にやや傾く。ロクロ成形後、
外面口縁部から胴下部ナ デ調整。内面は回転調整 がみられる。
13個/
不整円 マンガン釉 を施釉する が、法師お よび蓮華文 の区画は露 胎。
なしなし
第43図165 図版59-165
墓庭 マンガン
釉庇付 甕形
アーチ 形
3個/3円
①凹2
②凸1
③凸2
④凸2
庇部は半裁竹管で押引きの立体 的な瓦。降棟の先に獅子頭。胴部 に蓮華文・茎・法師像の貼り付け。
胴下部には唐草文と円文の貼り 付け。
口縁部はやや外反し、口唇 部は平坦だがやや外側に 傾く。ロクロ成形後、胴上部 静止ナデ調整。胴最下部 はヘラ削り。内面は回転ヘ ラ削りとナデ調整。
15個/円 マンガン釉 を全体的に 施釉する が、銘書面 および胴下 部は露胎。
あり なし
第43図166 図版59-166
墓庭 マンガン
釉甕形
アーチ 形
2個/2方
①凹2
②凸1
③凹3
④凹3
肩部文様帯は沈線で唐草文。胴 部は沈線で蓮華文。胴下部文様 帯は波状沈線文が1条。
口縁部はやや外反し、口唇 部は平坦。ロクロ成形後、
口縁部から胴下部をナデ 調整。胴最下部をヘラ削 り。内面は回転ナデ調整。
13個/円 マンガン釉 を全体的に 施釉する。
なし なし
※大きさ(㎝)は、ボージャー形・甕形は上から口径/胴径/底径/器高。家形・御殿形は上部(長軸×短軸)/底部(長軸×短軸)/器高。
S=1/2 5cm 0
第43図 016号墓出土遺物
164 165
166
167 168
169
第5節 016 号墓
(1)遺構(第 41 図〜第 42 図、図版 19)
016 号墓は調査区丘陵の西斜面に位置し、尾根を挟んで東斜面には 004 号墓が位置する。丘陵斜面地 に墓室を構築した亀甲墓である。当墓は本調査以前に廃棄され墓口が開いており、墓室からは甕形や御 殿形などの蔵骨器が散乱した状態であった。また、墓庭への廃棄も多く見られた。
チジ(屋根)は平面形が後方で湾曲する馬蹄形を呈し、ヤジョーマーイは見られない。ウーシ(臼)
に繋がる屋根周縁の石列は板状の切石を並べ、屋根の内側に面を向ける。また後列の切石は外側に面を 向ける。チジ中央はほぼ平坦で盛り上がりは見られない。石敷きは見られず、造成土による盛り土仕上 げである。マユ(眉石)は3個の切石で構成されており、眉頂部は平坦に仕上げ、眉端部に向かって下 方に屈曲し、先端部付近で上方に反る。両端部は肥大しない。眉正面の庇部には小さな段が施されている。
スディイシ(袖石)の上にウーシ(臼)及びクヮウーシ(子臼)が配置される。墓正面は切石による相 方積みだと見られるが、全面漆喰塗布がなされ目地が確認出来ない。墓口は高さ約 0.97m、幅約 0.63m、
奥行き(羨道の長さ)約 0.9mである。サンミデー(供物台)は1段で3個の切石で墓庭と段差を設け、
石敷きは見られない。石灰岩を砕いた砂(10YR6/8 明褐色砂)を敷き詰め、面を揃えている様子が窺えた。
スディイシ(袖石)は墓正面左右に岩盤削り出しの1段で構成されている。正面およびサンミデー側の 面も全面漆喰塗布がなされている。墓庭は岩盤を掘り込んで平坦化を行っている状況が窺えた。左側の ワラビヌティ(童の手)は不明瞭ながらもその痕跡らしき段差が見られるが、右側は欠落する。ワラビ ヌティやナージミー(庭積み)は岩盤を削り出して構築され、斜位に走る斜交層理が顕著に見られる。
左側のナージミーの高さは約1.5mを測る。ハカヌジョー(墓門)は基地建設による影響か検出されなかっ た。現存の墓庭の法量は奥行き約 6.5m、幅約 5.6mを測る。
墓室は棚を含めた幅が約 4.2m、奥行きが約 2.3m、シルヒラシから天井までの高さ約 1.8mを測る。
岩盤に横穴を掘り込んで造られた墓室で、墓室から墓口をみると正面は切石による相方積みで構築され たことが分かる。よって、墓正面を大きく開口し、切石により墓口を構築されたことが窺えた。タナ(棚)
は奥壁および左右側壁の出窓状の2類b型で、奥棚の奥行きは約 0.7m、シルヒラシからの高さは約 0.7 mを測る。左棚は奥行き約 0.8m、シルヒラシからの高さは約 0.5mを測る。奥棚および左棚は岩盤を掘 り込んで成形するが、奥行き約 0.8mの右棚は大きな切石を2段積んで構築する。シルヒラシは横約 2.3 m、奥行き約 1.4mを測り、岩盤直上は石灰岩を砕いた礫と石粉を混ぜた 10YR7/6 明黄褐色砂を充鎮し、
その上に1㎝大の小礫が少量混じる 10YR4/6 〜 10YR7/6 を敷き均している。
本墓の明瞭な造墓年代や使用年代は不明である。出土した蔵骨器をみると、図化を見送ったがボー ジャー形の蓋で安里分類のⅤa式(1740 〜 1770)が完形で1点出土し、多数を占める蔵骨器はマンガ ン釉甕形である。また最も新しい銘書は大正 12 年(1923)であることから、出土遺物から推定される 墓の使用時期は 18 世紀中頃から 20 世紀初め頃であると考えられる。
(2)遺物(第 43 図、図版 59)
016 号墓から蔵骨器、本土産磁器、沖縄産施釉陶器、アンダーガーミ、煙管、金属製品が出土した。
そのほとんどは墓庭からの出土であった。
第 43 図 164 はマンガン釉甕形の蔵骨器である。身の資料で口縁部が直口し、口唇部は平坦でやや内
傾する。肩部文様帯は無文で、横帯3〜横帯4の間の胴部を縦帯で5つに区画する。屋門は瓦屋形で2 本の柱で3つに区画する。屋門下部に貼り付けの蓮華文。その他は貼り付けの法師像と蓮華文が見られ、
茎の部分も貼り付けで表現される。胴下部は無文。マンガン釉は肩部、肩部文様帯、屋門の区画、胴下 部に施釉され、法師像が貼り付けられる区画は無釉となる。その特徴から安里編年のⅡ〜Ⅲ期(1770
〜 1850 年代)の資料と考えられる。墓庭から出土。
第 43 図 165 はマンガン釉庇付甕形の身で口縁部は外反し、口唇部は平坦でやや外側に傾く。庇部は 半裁竹管で押引きの立体的な仕上げ。胴部文様帯に蓮華文、茎、法師像の貼り付け。胴下部文様帯には 唐草文と円文の貼り付け。屋門はアーチ形の貼り付けで、銘書面に「内間筑登之」とある。
第 43 図 166 はマンガン釉甕形の身である。口縁部はやや外反し、口唇部は平坦。横帯3・横帯4は それぞれ3条の沈線文で表現され、肩部文様帯や胴部文様帯で見られる唐草文や蓮華文も沈線で表現さ れる。屋門は貼り付けのアーチ形。頂部と柱下に玉飾りが見られる。柱貫は見られない。安里編年のⅤ 期(1900 〜 1920 年代)の資料である。
第 43 図 167 はマンガン釉甕形の蓋である。つまみは宝珠形で鍔や端部を平坦に仕上げる。体部中央 に2条の沈線が廻り、棟状の突帯がつまみ台から中央の沈線まで3本伸び、その下端部に円形の粘土板 を1つ貼り付ける。マンガン釉を全体的に刷毛で施釉され、造りも丁寧である。
第43図168はマンガン釉甕形の蓋である。つまみは宝珠形。鍔は平坦に仕上げ、かえりは0.3㎝と低い。
つまみ台から下方に小孔が 30 箇所余り見られる。銘書は見られない。
第 43 図 169 は沖縄産施釉陶器の煙管の吸い口である。法量は長さ 3.15 ㎝、重量 5.9gである。白色 の素地に透明釉が施される。素地は乳白色を呈する。墓庭から出土。
第6節 018 号墓
(1)遺構(第 44 図〜第 45 図、図版 20)
018 号墓は調査区丘陵の西斜面に位置し、墓口の方位は西南西である。丘陵斜面地に横穴を掘削し、
墓室を構築した亀甲墓である。当墓は本調査以前に廃棄されており、墓口は開口し、蔵骨器の多くは墓 庭へ廃棄されていた。
チジ(屋根)は平面形が後方で湾曲する馬蹄形を呈し、頂上から右側部分は欠損するがヤジョーマー イは高さ約 0.5mの板状の切石を一列に廻らしたと見られる。ウーシ(臼)につながる屋根周縁は2条 の石列で面を持つ方が上面を向き、石列の間は造成土で重鎮する。両列の表面に漆喰の塗布を施し、幅 広の石列で周縁が廻るよう意匠される。チジ中央は緩やかな弧状を呈し、石敷きは見られなかった。仕 上げは盛り土で行ったと見られる。マユ(眉石)は2つの切石で構成されている。眉頂部は平坦に仕上げ、
眉端部に向かって下方に屈曲し、先端部付近で上方に反る。両端部は肥大しない。眉正面の庇部には小 さな段が施されている。スディイシ(袖石)の上にウーシ(臼)及びクヮウーシ(子臼)が配置される。
調査開始時はウーシが残存していたが、調査中に落石の危険が生じたため除去した。墓正面は岩盤の削 り出しで、全面に漆喰塗布される。墓口の高さ約 1m、幅約 0.65m、奥行き(羨道の長さ)約 1mである。
サンミデー(供物台)は2つの板状の切石を並べ、墓庭との段差を設ける。向かって左隅に幅約 21 ㎝、
奥行き 18 ㎝のカビアンジ(紙銭焼き場)が造られる。スディイシ(袖石)は墓正面左右に岩盤削り出 しの1段で構築されるが、左袖石は板状切石を正面や側面に配して右袖石との面を揃えている。右袖石 では漆喰が全面に塗布される。ハカヌナー(墓庭)は岩盤を掘り込んで平坦化を行っている状況が、左ナー ジミー(庭積み)の斜交層理と庭の岩盤床面で見られた斜交層理のラインが同一なことからも窺える。
岩盤の窪み部分に2〜5㎝大の石灰岩を砕いた小礫と石紛が混じった 10YR6/8 明黄褐色砂の造成土を 重鎮し、その上層に1㎝大の礫や枝サンゴが少量混じる黒褐色砂質土で表面を敷き均す様子が見られた。
ワラビヌティ(童の手)は岩盤削り出しの後、小さな切石による雑な相方積みでナージミーの3分の1 程度まで造られるが、先端部は相方積みのままである。左側のナージミーは岩盤を削り出して構築され ているのに対し、右側は大きめの切石による相方積みで構築される。左側のナージミーの高さは約 1.1 mを測る。ジョー(門)は相方積みで高さ約 1m、幅 1.5m、奥行き約 1mを測る。ハカヌナー(墓庭)
は幅約 6.6m、奥行き約 6.8m、平面観は方形となる。
墓室は幅約 2.7m、奥行き約 2.7m、シルヒラシから天井までの高さ約 1.8mを測る。タナ(棚)は奥 側に2段、左右に1段で、2段目は平面観がコの字状となる。奥棚と左右棚の高さは均一であることか ら6類a型に相当する。棚は岩盤からの削り出しで造られるが、奥棚や右棚の縁石の一部に切石が列状 に配されている。シルヒラシは横約 1.6m、奥行き約 1.3mを測り、石灰岩の砕いた小礫と石粉の混じっ た 10YR7/6 明黄褐色砂を敷き均している状況が窺えた。
本墓の造墓年代は明らかでないが、墓の使用時期は最も古い銘書が荒焼御殿形で見られた 19 世紀半 ばで、最も新しい銘書が明治 45 年(1912)であることなどから、19 世紀半ばから 20 世紀初頭まで使 用された墓であると考えられる。
(2)遺物(第 46 図〜第 47 図、図版 60)
018 号墓から本土産磁器、沖縄産施釉陶器、煙管(雁首)が出土した。銘書より古波蔵姓が確認できた。
第 46 図 170、171 は荒焼御殿形の蓋と身のセットである。墓室からの出土だが棚やシルヒラシで割 れた状態で検出され接合により完形資料となった。蓋は入母屋型で大棟に一対の鯱が乗る。降棟の先端 に装飾は見られない。身は位牌形の屋門を貼り付け、その両側と側面に蓮華に乗った法師像を貼り付け る。その下部には左右向かい合う馬の像が見られる。蓋および身で銘書が見られた。身の銘書面に「道 光弐拾一年壬寅正月六日/死去/兄/古波蔵筑登之/同弐拾三年甲辰六月十二日洗骨」とあり、蓋内面 にも同様の銘書が墨書される。これより被葬者は「古波蔵筑登之」で道光 21 年(または道光 22 年)に 死去し、道光 23 年(または道光 24 年)に洗骨されたことが分かる。
第 47 図 172、173 は上焼御殿形である。蓋は左棚から、身は墓庭と墓門前から出土した。接合によ り完形資料となる。上江洲編年の 1810 〜 1940 年の資料となる。
第 47 図 173 はマンガン釉甕形の蓋である。墓室から出土。蓋内面に「明治四拾五年旧五月/■■/
五日洗骨/古波藏丑妻」との銘書があり、被葬者は「古波藏丑妻」で明治 45 年(1912 年)に洗骨され たことがわかる。図化した副葬品は墓室や墓庭から出土した。第 25 表、第 47 図 175、176 のとおり。